オープニングナンバー"A Little Lost"はArthur Russelのカバーで、元の作曲家がチェロを用いて演奏したもので、オリジナル、カバー共に高いキーで始まる。Baldwinはよく弦を不協和音を作るためにかき鳴らすが、ここではまるでベッドカバーのように柔らかい表現に徹している。これがBaldwinの歌唱と優しい詩の展開にうまくフィットしている。Russelのオリジナルは伝統的なポップの定型の中で機能していたが、Baldwinはコーラスとヴァースを用いて曲を装飾する傾向にある。これによって開放的な感覚を全てに与え、最終曲の"Let My Spirit Rise"でもそれは顕著である。紙に「君のために、僕に一回にキスしなよ」みたいな歌詞が書かれていると自己陶酔したシンガーソングライターみたいな感じに見えるかもしれない。しかし、アレンジメントや構造の足りなさに関わらず、これはどこから見てもポップソングだ。素晴らしい曲の手触りの連なりがもっと色々なものを楽しみに取っておいてくれるのだ。
このような要素はPeople Changesが広がりを見せることでさらに面白くなっていく。木管楽器が鳴る、綱渡りのようなドラマ仕立ての"Weights"ではBaldwinはギターやサックスの盛り上がりを入れ、静かな”Lifted"ではスネアを挿入した。短い"What Is There"はベースのうなりやげっぷみたいな要素を混ぜたベースのインストナンバーである。彼が喉を使って歌っていたり、弓でベースを歌わせていても、そこには自由の刺激的な感覚がいつもある。
最後に僕らがThe Strokesを見たのは彼らが死ぬミュージックビデオでだった。2006年の"You Only Live Once"のクリップでこの四人組は白い服を身にまとい、黒い液体が部屋に充満して行く部屋の中で溺れていた。もしそれがこのバンドの最後を本当に表していたとしても、驚く人は少なかっただろう。三枚目のアルバム、First Impressions of Earthで彼らはバンドの特徴的な音を広げようと必死になりすぎて、まるで黒い水の中でもがいているように見えた。この変化はバンドを逆に不自由にさせたのである。しかもThe Strokesは数年に一枚の周期でアルバムを出して、ファンに昔の曲を歌わせるようなバンドになるほどアホでかっこ悪くないだろ?だから彼らはそれぞれの道へ去っていった。はっきりしないサイドプロジェクトをやったり、家族と過ごしたり、the Strokesではない所ならどこへでも。
このアルバムではバンドが地からまたやり直そうという試みがなされている。今まではCasablancasがギターソロやベースラインまで殆ど作曲を手がけていたが、Anglesでは一歩下がって、他のバンドメンバーからの曲が加えられている。そしてこの新しい仕様はクレジットをみても明らかだ。([すべての作曲、編曲 The Strokes]と書いてある。)
ファーストシングルの"Under Cover of Darkness"の陽気な聞き慣れた感じの高低違う二つのギターサウンドと滝のように重なったコーラスは、結局the Storkesはthe Strokesであるという結論に達したのだと思わせた。他のスタイルと音でふざけてみた後に、自分たちの昔の姿へリバイバルして満足していたように見えた。しかし、良くも(徹底的に)悪くもそうではなかった。このバンドが登場した時は周期的に1970代ロックのパクリだと批判されていたが、多くの人がStrokesの歌をTelevisionやLou Reedと聞き間違える事はほとんどないだろう。だから彼らの物真似がAnglesで不自然に聞こえるのは皮肉なものだ。しかし、今回は安っぽいCBGB風パンクの影響が時々、1980年代の目立ったスネア音に置き換えられている。"Two Kind Of Happiness"では昔のヒューヒューしたU2のフックで曲を盛り上げ、一度一緒にツアーを共にしたTom Pettyのパームミュートとしゃっくりみたいなメロを盗用している。"Games"はまた80年代へのオマージュで、綺麗なシンセと遠くで聞こえるようなハンドクラップを使い、「空っぽの世界で生きる」ことの憂鬱と重い負担を表現しようとしている。始まりの曲、"Machu Pichu"はMen at Workの"Down Under"を思い起こさせる。これらのバンドがStrokesのアルバムに影響させると誰も予期しなかった。
それは構わないし、良い事だとも。もし彼らが他のバンドみたいな魅力や献身でやり通したならばね。全体を通して、ヴァースとコーラスが、歌詞と音楽が、意図と遂行の関係が繋がっていなく、アルバム全体をバランス悪く引きずっている。Casablancasの自分の行動へのアンビバレンスがよく顔を出す。プログレっぽくしようとしてださくなった"Metabolism"で彼は宣言する。「悪いヤツになりたい/でも心では自分がつまんないヤツだって分かってる」ぐちゃぐちゃな最終曲“Life Is Simple in the Moonlight"で彼は告白する。「自分の事以上に人を認めなかったり自分以外を応援したりしない。」Casablancsはthe Strokesで自己嫌悪を最初からずっと歌ってきたが、いつもは音楽の起伏が感情をうまく演出していた。しかし、ドラムのない、悲しそうな"Call me Back"で彼は「みんな忙しいし、誰かいつも遅刻する」とふわふわしたキーボードとギター一本で歌う。この曲をきけば、なんで誰も彼に電話を返さないのか分かるはずだ。
しかしまだ、この五人が集まったのが何故良かったのか思い出させてくれる瞬間がある。ビートが効いた"Gratisfaction"はまるでThin LizzyとBilly Joelを合わせたようなあくせくしない、直球ナンバーで、他のアルバム曲の中で群を抜いてキャッチーだ。さらに良いのは“Taken For A Fool"で、Anglesで唯一今までのThe Strokesのサウンドのまま斬新な音を鳴らしている。この歌のヴァースは隙がなく、David BowieのLodger収録の曲みたいに不思議にファンキーなのだが、シンコペーションを楽器のフックがせっかちな感じで落ち着かせている。2009年に音のこだわりへの到達点について、Casablancasは「本当にチャレンジしてみて、基本に戻って、普通に音が聞こえる事だね。」と言っていた。価値のある目標だし、"Taken For a Fool"では成し遂げられている。
The Strokesの復活についての当てにならないニュースがこの数ヶ月で続いていたのと同時期、同じ時代に活躍した二つのバンドが舞台を去った。The White Stripes---彼らはStrokesに「今一番クールなバンド」選手権で何年か闘いを挑んでいた。彼らは休止期間を経て2月2日、公式に「バンドの美しいもの、特別なものを永遠に保存するため」解散を発表した。NYの仲間LCD Soundsystemは4月2日にマディソンスクエアで活動に有終の美を飾る予定である。偶然にもその一日前にThe Strokesが同じ場所でライブを行い、第二の人生を送ろうとしている。誰もが先進的である内に辞めたいと思う。本当に辞めるバンドもいるのだ。
彼のレコードレーベルの広報によると、シンガーソングライターそして詩人のGil Scott Heronが他界した。62歳だった。
R&B, Hip Hope,スポークンワードに影響を与えたScot-Heronは1970年代に力強いアルバムを続けて発表した。彼が書いた1970年のアルバムSmall Talk at 125th & Lennox"で書いた"The Revolution Will Not Be Televised(革命はテレビで放映されない)"という曲とこのフレーズは文化的によく引用されるようになった。Scott-Heronはその後、ドラッグ問題と闘い、2000年代は牢に投獄されていた※。しかし、2010年に批評家から評価されたI'm New Hereで音楽会に復帰。今年の始めはJamie XXとのコラボレーションWe're New Hereも発表していた。
2008年に発表されたFriendly Firesのセルフタイトルのアルバムに"Jump in the Pool"という歌がある。歌詞の題材はかなり直球(ヒント:プールに飛び込む)だったが、このナンバーがアルバムの目玉曲になった理由はコーラス部分で歌の名前を繰り返し、サビに突っ走って行く所である。活気に溢れたポリリズムから、ただの数秒で速く勢いよいサビに展開していく。印象的な演奏と旋律の変化はおなじぐらい思い切ったものであった。しかしそれがポイントでもあるのだ。Friendly Firesが一番輝いていたのはロマンティックなエレクトロの感触("Skeleton Boy")、と大げさなジェスチャー("Paris")を表現していた時であった。彼らは抑圧が効かない状態で優れている官能主義者達なのである。
賢明にも、バンドの二枚目の作品Palaでは時間をかけず、すぐに世界観に染まっていく。様々な色をもつネオンポップのアルバムの最初の曲、"Live Those Days Tonight"ではアルバムの音に対する野心を聞く事ができる。今回Paul Epworth(注:Adele, Maximo Park, Cee-Loなどを手がけるプロデューサー)が大きく製作に協力し、さらに楽曲にカラフルな音の装飾を加えた。デビューアルバムから3年、この期間バンドは注意深く正確にディテールの細部を飾り立てるための時間にうまく利用していたようだ(B級映画みたいな安っぽい"Blue Cassette"の盛り上がり、"Helpless"のバックで聞こえるおしゃべりとBoards Of Canadaのようなキーボード使いとか)。
しかし、世界にあるどのような言葉で説明しようとしても、Friendly Firesがまずロックバンドであるという事実は変えられない。しかもとくに感情的に特徴づけられている。バンドの三人のメンバーは10代の時に誰も知らないボーカル無しの"ポストハードコア風(つまりエモってことだけど)"のスタイルでFirst Day Backを結成した。いちど彼らの音楽を一度でも味わった事がある人は、それが一度聞いたら、ずっと耳に残ってしまうという傾向にあるということが分かっているはずだ。そして、Palaの高いリスクの作品構成がそれを反映している。このアルバムではエモーショナルな部分が規則的に出てくる。情熱的な嘆き"Show Me Lights"や“Pull Me Back to Earth"は君が期待するのと同じくらい大ざっぱな出来だ。バンドが大げさな、陰鬱に色付けされた劇的演出(出足が遅いタイトルトラックや、"Chimes"の勇敢な感じに見せようとしているバカっぽいファルセット)に縛られすぎている時、この作品、Palaの深海に飛び込む感覚が溺れる感覚と似たようなものに変わってしまう。
Director's Cutは1989年発表のThe Sensual Worldと1993年発表のThe Red Shoesの曲を変身させたものである。何曲かは、重要な要素(リズムトラックやボーカル)が再録音されている。ある場面(たとえばゲストパフォーマンスなど)は変えず残されている。まれに、一曲丸ごとリメイクされている。聞き慣れた、とても時間に縛られ、あまり新しくなく、またファンが数年聞き続けてきたものではない作品の誰も予期しない大きい再生を行ったのだ。Director's Cutのミックスの大きな違いは音色だけではなく、多くの曲で感情の胎動も変化させた。レコード上では活発な、人見知りの女性から過去生み出された作品が今では、多くの場合で落ち着いていて、思慮深く、内向的なものになった。
The Sensual Worldが最初発表された時、現代的な作品にも、時代遅れな作品にも見えた。きらびやかなスタジオワークに拘ったプロダクションは正に時代に沿っていたし、Fine YoungやINXSのような活発なドラムとリバーブを聞かせたポップの流行に適していた。しかし、曲やBushのパフォーマンスは彼女はやはり同じ型でアプローチしていることをくっきり思い出させてくれた。オペラのような歌唱、プログレ、ジャズ色を帯びたカンタベリーのサイケデリックシーンのような複雑性、Peter Gabrielを巨大なラッパスイセンみたいに変装させてしまうほどの演劇性は変わらずだったのだ。それは不思議な混合物だった。滑らかで怏々しい80年代の音楽が70年代プログレで顕著だった複雑な曲構成と表現主義が合わさるのは変な感じだった。レコードのほとんどの緊張は、生々しい感情的な奇妙さがいつ現れてもおかしくない、キラキラした聞きやすいポップソングから感じる事ができた。彼女はその瞬間を演じていたが、それに流される事は出来なかった。
The Red Shoesが発表される頃には、アルバムのプログレ構成、ゲストのギタリスト、ワールドミュージックの感覚、あらゆるポップミュージックを洗練させる技をつめた音楽性は、生々しく「本物」を求めたオルタナロックにフィットするにはBushはすこし飾り立てすぎていた。(注:Nirvanaを始めとしたガレージがはやっていた頃)
BushがDirector's Cutで完成させたのは、簡単に言うと、これらの曲から80年代っぽさを無くしてしまうことだった。(90年代に発表されたThe Red Shoesにも同じ事が言える。)ドラムの存在感とデジタル処理は音楽を即座に古臭くし、聞きやすさと深い個人的な世界の明らかな対比を浮き上がらせてしまっていた。今回、この二つを穏やかなリズムトラックを、暖かくもっと親密な空間に置き換えた。オリジナルの“The Sensual World”ではケルト音楽からアイディアを得た要素がデジタル処理された世界の中へ乱入していた。君がもしオリジナルを面白い配合だとと感じたり、新古が変に混じった物だと感じていたとしても、新たに名付けられた"Flower of the Mountain"ではこのような粗暴な要素はもう排除されている。曲はまだ、バンドが一緒に演奏している感覚が無いが、新たな統一性があり、愛らしく手作りされた音の合体した要素が感じられる。"The Red Shoes"は同じくケルト音楽に影響されているアルバムの目玉曲で、Bushの一番ワイルドなパフォーマンスの一つである。新たな激しさを得ることが出来たのは、バックの音が独創的に進化したからである。しかし、このつなぎ合わせの作業の全ての要素が完璧に仕上げられているわけではない。"And So Love Is"の奇妙なキーボードの感触ーGang Gang Danceが好んで使うようなキッチュで酸っぱい80年代のサウンドーが今回の新たな環境で驚くほど自然になじんでいる。しかしEric Claptonのブルース風のギターのかき鳴らしがさらに浮いて聞こえ、スタジアム級の怒号がこの手作りの世界にはなじんでいない。確かに緊張感を生んでいるが、間違った類の緊張感になってしまった。
James Blake(以後JB):うん、でもライブは違った物になるから。僕がこの曲達をライブで演奏できることは面白い事だし、とても楽しんでやってるよ。シンプルになっただけじゃないんだ。(トラックを)バックのバンドとすべて置き換えて、生のエレクトロニック音楽を作っている。僕はProphet 08を使っている。世界で一番のシンセサイザーの一つだよ。僕はキーボードプレイヤーで、みんなの前で生で演奏が出来て、今まで僕が出来なかった方法で、自分が大好きな事を実演するのって素晴らしい事だよ。
PF:あなたのライブを見てわくわくする事の一つに、あなたがどうやってこの曲達をライブとして蘇らせるのかという好奇心があると思うんです。Maida Vale Sessionのバージョンの"The Wilhelm Scream"がとても忠実に再現されていて驚きました。(曲の構築を)成功するために、効果的にリアルタイムで曲が作られていましたから。