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2011年6月12日日曜日

Suck it snd See/ Arctic Monkeys

Arctic Monkeys
Suck It and See


7.5

— Marc Hogan, June 9, 2011




無愛想な10代のバンドがオンラインで音楽を無料配信して音楽業界の決まったセールス方法の高をくくり、CDの売り上げがどんどん減少している時代にも関わらず、レコードをなんとか売り上げている。これは最近では良くある話だが、Arctic Monkeysの以前の早熟なアルバムWhatever People Say I Am, That's What I'm NotはUK史上初のデビューアルバム売り上げ最高速度を記録した。2006年はまだ"MySpace "出身のバンドがまだもてはやされていた頃だったにも関わらず。現在、ニュースコーポレーションがMySpace、Bandcamp、Tumblerなどの音楽関係の記事が多いソーシャルネットワークサービスを売り出そうとしているが、シェフィールド出身のこのバンドの最新作は、もっと伝統的なアプローチで勝負している。

Suck It and SeeはArctic Monkeysの四枚目の作品で、今までで一番評価できる作品だ。しかし、ブログで話題にする代物ではない。Facebookのステータスを更新する時や、完璧なつぶやきを考えている時に聞いてしまうと、きっと何か重要な物を逃している気分になるだろう。まぁ、何をしているにしろ、それは起こりえるだろうけど。例えばタイトルを見てみると、間違いなくこれは部分的にアメリカの観客に向けた、意図された挑発であろうことがわかる。イギリス人はこのタイトルを"Give it a try"(試してみろよ)と間違って理解するだろう※。しかし、このレコードは永遠に聞いていられるような細かいディテールに溢れ、怠惰と、傲慢な所はフロントマンAlex Turnerの良く練られた歌詞とバンドの熟練した演奏に表れている。この音楽性はマッチョなグラムロックスタイルと、キラキラしたインディーポップのバラード曲まで及んでいる。西部劇や退屈な天気についての観察の裏には、思想に富んだロマンスや大人になる事へのテーマが隠れている。

※Suck it and Seeは直訳すると「舐めてみればわかる」というエロティックな意味合いを感じられます。AlexはタイトルについてNY TIMES紙のインタビューで"Dick Van Dyke"風の古い英国主義っぽさを出したかったとコメントしています。アメリカ人への挑発、というのはその理由でしょう。

「きっと五年以内にはみんなが「Arctic Monkeysってなに?」って言ってるさ。」と五年前にTurnerは言った。それに適して、Suck It and Seeはバンドにとって再出発的な作品となった。2007年の傑作Favourite Worst nightmareはSimian Mobile DiscoのJames FordがプロデュースしたArcticsの初めてのアルバムで、感情や音のパレットを埋める事に成功し、音楽的にも強化した。2009年のHumbugはQueens Of the Stone AgeのJosh Hommeが参加し、予想していた通り、たくましく、くつろいだ作品となった。他には、Turnerのシャウトを聞かせた声を甘い歌声に成熟させた2008年のサイドプロジェクトThe Last Shadow Puppetsがあり、Richard Ayoade監督の映画、Submarineではサウンドトラックを担当しアコースティック調を聞かせた。新しいレコードはFordプロデュースで、Hommeが"All My Own Stunts”という曲でバックボーカルとして
マッチョな声で参加している。このアルバムはそれぞれの経験を活かし、全てをバンドの次のレベルへ昇華させている。自信に満ち、メロディーに優れ、今まで以上に巧妙に演奏されている。

TurnerはNick Cave, The Byrds, Nick Lowe, David Bowie, Leonard Cohenに加えカントリーの大御所Johnny Cash, George JonesとPasty Clineが今作の歌詞に影響を与えたと答えている。彼が一番はっきりしている時(それでもかなり曖昧なんだが)、Suck It and Seeに侘しいユーモアのセンスがあり、彼が冗談をついていないと証明している。それがバンドメンバーの趣向にあるBlack Sabbathのリズム感覚やStooges風の攻撃的な演奏によって曝け出されている。音楽的に、ドラマーのMatt Heldersがバンドの「まあまあな秘密兵器」として残っていて、ネガティブな精神状態や嘘っぽい純粋なワルツを表現している。Sean Combsは彼を何度もDiddy Dirty Moneyに招待しているし※。

※P.Diddyのグループ。ドラムとして参加している。

引用したくなる歌詞が何度も出てくるし、バックの演奏はかなり洗練されていて一回聞いただけでは気づかないだろう。"Don't Sit Down 'Cause I've Moved Your Chair"はタイトルに値した(「君の場所はないからそこに居座るなよ」)威張り散らした感じのブーギーで、そこに居座る事よりも安全な、危険なアイディアを排除している(「マカレナを悪魔の巣窟で踊る」みたいな、いつもの感じの)。勇敢な叙情詩風の“Reckless Serenade"には「上半身裸のモデルが手旗信号を送っている/歩きながら旗を振り、無視されている」という歌詞から始まる。他に、Turnerは彼の胸中をしっかり隠しているために、歌詞の文学的な意味を解明する事は多分不可能だろう。しかし、彼の破綻した歌詞のイメージ像はまだかなり魅力的だ。アルバムの楽曲は多くの場合さらにヘヴィーで、ぼやけている。"Black Treacle"は西部劇「明日に向かって撃て」のようで、「夜の空にへそピアス」といった景色を喚起させる(Turnerはかなり慎重に言葉選んでいると思わないか?「さあ暗くなってきた、空はベトベトしている/タールよりは黒い糖蜜のように見えるな」、という感じなのだ)。"The Hellcat Spangled Shalalala"は記憶に残る印象的なメロを、そう"Sha-la-la-la"とコーラスする。"She's Thunderstorms"は荒々しく、魅惑的な女性をテーマに同じように荒々しく演奏している。しかし、ぎざぎざの複雑な"Library Pictures"だけが興味を惹く事に失敗している。

メインストリームを"I Bet You Look Good on the Dancefloor"という曲で突破したバンドにしては、Arctic Monkeysはいつも静かな優しい瞬間の表現に優れてきた。Suck It and Seeにもその瞬間がある。心を痛ませる"Love is a Laserquest"では失恋の感情を過去のスロウな曲"Do Me a Favour", "Cornerstone", "A Certain Romance"と同じように容赦せず叩き付ける。かなり違ったバンド、Fleet Foxesの"Helplessness Blues”に一貫した同じテーマがこのアルバムにも流れているのだ。「君が昔そう思ってた頃よりまだ若いって感じてるかい?」と最終曲"That's Where You're Wrong"(そこが間違ってる)で、LCD Sound Systermの"All My Friends"でのどんどん盛り上がって行く2コードのフォーマットを辿り、過ぎいく日々への心配を深めていく:「自分の事のように心配しないでくれ、ハニー/年をとったのは君だけじゃないんだよ」ブログでは見かけない何かがここにある。あまりにも早く成長し、素晴らしく年をとったバンドが。

原文:Suck It and See/Arctic Monkeys, Pitchfork





2011年6月8日水曜日

Cults/Cults




Cults
Cults


— Joe Tangari, June 6, 2011

8.5


去年Cultsが"Go Outside"で初めてネットに現れた時、まるで野火のように広がっていた。キャッチーでスイート、誰でも歌えるようなメロディーでオフィスに閉じこもっていたり、ネットに夢中になっている人々にとって完璧なシンガロングな曲だった。でもそんな「みんなの歌」をバンドは飽きられる事無くどれだけ作る事が出来るだろうか。Cultsはそんなこと気にしていないようだ。"Go Outside"はこのデビューアルバムに収録されていて、まだ一日必要量のビタミンDを与えてくれるように元気なトラックだ。しかし、この曲の夢のような流れはバンドの器用さとカラフルで記憶に残るアルバムを作る作曲能力がある事を証明する一つの側面にすぎない。

CultsがColumbiaと契約する事についての早さについて多くの事がすでに語られてきた。まるで彼らがメジャーでデビューアルバムを発表する初めてのバンドのように扱われていた。このような急速な上昇は別に真新しい事ではないが、それと同時に入ってきた予測、オンライン上で彼らが「一発屋」になる運命だと言われていた事は今では酷い見当違いだったことがわかるだろう。バンドのアピールポイントの中心に、歌い手Madelline Follinの若々しいアルトの歌声がある。彼女の出す音色は早熟の10代後半の女の子がPhil SpectorのBack to Monoとここ三十年分のピークに達したインディーポップに熟練したバンドのフロントをしているような、そういう印象を作り出す。彼らの音の60年代ガールポップの要素は表面上かなり顕著である。“You Know What I Mean"のメロディーはThe Supremesの"Where Did Our Love Go"から拝借している。しかし、彼らは21世紀の音楽で、シンセとギターと、柔らかくくっつけられたサンプルでカッティングをしてみせたのだ。

もし彼らがカルトに対して大きな問いかけをしようと決めたのであれば、カルト団体のリーダー達がそれぞれの信者に話しかけている場面のサンプルは気が散る部分になりえた。しかし、それらはアルバムの音の生地にきつく編み込まれていて、「謎解き」が出来るように様々な形に処理されている。これによってリーダーのスピーチは効果的な音のテキスチャーに変化した。これは"Oh My God"のイントロで跳ね回る。元々はAdult Swimのシングル発表の一部として去年リリースされていたが、今作のために少し再編集されている。音楽そのものは変わっていないが、ビートの圧力があがり、ミックスの前方にベースが動かされ、メロディーを支える強力なグルーヴを曲に与えている。Follinの歌詞は必要以上に深いものでなければ、彼女はみんなが共感できる歌詞を書く。(「私はいつでもあなたをおいて逃げて行く事ができるの。私の人生の計画を知ってるなんて言わないでよね。」)

これがアルバムを通して現れる短気な性格を作り出している。”もう(あなた以外)誰もいらない”という"Never Saw the Point”の歌詞は恋愛の終わりの一言かもしれないが、変にポジティブに考えてみると、これがレコードの主なメッセージであるかの様に感じる。永遠に明るい"Go Outside"も”私は自分の人生を行きたいし、あなたはただそこにいるだけ」という歌詞で終わる。これらは10代の感傷的な部分で、一旦10代半ばに入ると、言ったり考えたりするのも馬鹿らしいと感じるような事だ。しかし、これは人生で自分がどんな人間になるの考える瞬間に誰でも感じる普遍的な感情だ。Cultsのティーンミュージック(ガールバンド、50年代のプロムポップ、ベッドルームインディーポップ)から借りた要素は歌詞と共に小さな世界を作り出している。Follinがイライラして”ファックユー!”("Never Heal Myself"[絶対立ち直れない])と歌い、次はどこかに逃げたいと夢見る。さらに形式張ったポップの探求精神も青年期のメロドラマを盛り上げている。Phil Spector風ポップのレコードのアンセム級のオープナー”Abducted"は恋に落ちる事を誘拐される事に比喩して、もう一人のメンバーBrian Oblivionに誘拐者のボーカルパートを与えている。

30分強だが、
Cultsは完璧な長さに感じられる。バスに乗って学校(あるいは仕事)に行くのにちょうどいい長さだ。しかしもっと重要なのは、このアルバムは完璧にするべきことが成されていて、このグループに成長と成熟する空間を与えている。彼らはまた自分たちの音と、歌詞のテーマを今後様々な方向へ持って行く事が出来るし、それは若いバンドにとっていいポジションだ。Cultsは去年たった3曲で今年への期待を募らせた。このデビューアルバムでは十分それに応えている。

原文:Cults/Pitchfork






2011年6月6日月曜日

Patrick Wolf, Lupercalia

Patrick Wolf
Lupercalia

[Mercury / Hideout; 2011]

5.3

By Ian Cohen, June 2, 2011


「愛についての曲はポップミュージックでは共通のテーマだけど、今回僕は誰もやらなかった方法でアプローチをしたかったんだ。タイトルはバレンタインデイ近くに開催される古代の愛と繁殖の祭り、ルペカリア祭から取ったんだ。僕はオリジナルな存在でありたい。僕の一番の野心の一つがそれなんだ。やけに感傷的なレコードほど酷い物はあまりないからね。もしこのアルバムをTo Love: Patrick Wolf!(愛する人へ、パトリックウルフより!)なんて名付けたりしたらひどいよね」


これはPatrick WolfがLupercaliaの失敗点を指摘された時に、アルバムの良さを必死にアピールしている所である。彼が初期のゴスフォークの芸術家っぽい振る舞いをまだ続けているのは明らかだが、2005年のダークな曲調が続くWind in the Wiresでキャリアのピークに達してから彼はどうもポップのスターダムに立ちたいようだ。こういう欲望の爆発は魅力的な音楽製作の手助けになり得るが、アーティスト自身がポップミュージックと消費者より上に立っていると考えていたら成功する事はほとんどないだろう。そして残念な事に、彼がThe Magic PositionとThe Bachelorでやったように、Wolfはオーディエンスと同じ視点で考えられず、リスナーのイマジネーションにほとんど訴えかけない、自意識過剰なレコードを作ってしまった。これではTo Love:Patrick Wolf!のタイトルの方が適していたんじゃないか。

最初はWolfのニューロマンティックポップへの先陣を切っての挑戦は良い動きかと思えた。"Accident & Emergency"や”The Magic Position"や今作の先行シングル"The City"ではキッチュで楽しい即効性のある楽曲だった。チーズボールのようなホーンの導入や、愛は物より勝るという意欲的な歌詞はうまい具合に80年代のニューポップを彷彿とさせた。でも"The City"のビデオのWolfがSanta MonicaのビーチでHollisterの広告のモデルみたいなのと浮かれ騒いでるみたいに、Lupercaliaの残りの曲は自意識に溢れていているが、致命的な物が欠けている。このアルバムがどれだけずうずうしく自己賛美しているかに、気づけていないのだ。

彼のレーベルか誰かが彼に「ハッピー」なアルバムを作れと命令していたかは否定できない。しかし、Wolfはまるで自意識が彼の一番つまらない曲を作る許可を与えてくれたと感じているみたいなのだ。そのとどめとなる(それが魅力的なのかもしれないが)”House"という曲で「今までで一番素晴らしい場所だ/愛だけが家を「我が家」と呼べる物にしてくれる」と歌い、愛の意味を知る"Together"では「これは一人ではできないや/でも一緒だともっとうまくいくよ」と最後の部分はわざわざハーモニーをつけて強調している。だからストリングスが苦しそうな"Slow Motion"という曲(「君と会う前は銀色の魚のキッチンの中で暮らしていた)でちょっぴり詩人ぽく表現しているのはおかしくきこえる。まあ、結果違う視点で同じ批判ができるけれど。

Wolfの最近の婚約が作品にインスピレーションを与えているのを考えても、このアルバムがとても客観的に聞こえるのは変だ。しかし気取ったピアノを使った物語調の"Bermondsey Street"はMadnessの"Our House"とLady Gagaの"Born This Way"の中途半端なバージョンみたいだ。いらただしいのは、調子のいい歌詞の並びを無視して考えるとWolfは他の全てではほとんどうまくやっているところだ。Lupercaliaの前半部分で彼はメジャーなメロディーの曲は得意だと証明してみせ、今ま
でで一番自信のある決定的な歌唱を聞かせてくれる。しかしWolfのほとんどのアルバムがそうであるように、結局Lupercaliaが進むごとに悲しい曲やワルツに心酔してしまい、楽曲を処理されたサンプルや散乱したストリングスで過剰に演出してしまう。"The Days"や"Slow Motion"といった曲はテンポの違いを除いては同じようなものだ。

Wolfを抽象的な存在として考えると、彼は間違いなく才能があり、野心的でスターになる素質がある。しかし彼のオリジナルな存在でありたいという願いはどんどんズレて行っているように感じる。最近グラムロックを性的指向がよく分からない演劇的な表現でミックスしているのは彼だけではない。Of Montrealの挑戦的な良いとこ取りのスタイルやDiamond Ringsの厚かましい告白体や、Lady Gagaの堂々としたメディア戦略と比べ、
Lupercaliaでの家庭的なWolfはうまく躾けられた感じにしか聞こえない。※tame,躾けるという単語はWolf(オオカミ)にかけている。

原文:Patrick Wolf: Lupercalia, Pitchfork










Lupercalia

2011年6月3日金曜日

Death Cab For Cutie/ Codes and Keys

















Death Cab For Cutie

Codes and Keys
[Atlantic 2011]

5.0


2008年発表のDeath Cab for Cutieの最後のレコード、Narrow Stairsでギタリスト/プロデューサーのChris Wallaはバンドがブレイニアック(ずば抜けた知的能力と独創性を持つ人)からインスピレーションを得て、「ヘヴィーでどろどろの、スロウでメタル」なレコードには「10分続く長いCANのようなジャムセッションがあるんだ」と言った。しかし作品ではどこにもそれに似たものは聞こえなかった。たとえばジャムセッション、"I Will Possess Your Heart"は確かに八分以上だったがBen GibbardをDamo Suzuki(CANのボーカリスト)と聞き間違えたりしないだろう。バンドの最新作、Codes and Keysでまた影響された人たちの名前を落としている。GibbardはSPIN紙に、今作はキーボード重視で「ギターベースではない」と言い、Brian EnoのAnother Green Worldがどんな作品になるかを予想させるヒントとして言及した。

実験作であるという主張(過剰に言っているが)は今回はそんなに間違っていない。Codes and Keysは確かに今までのバンドの作品と違う色になっている。パタパタとしたソフトなビートがつまらないメロディーの下で鳴っていて、その上からすでにバタバタしたアレンジの上にさらに楽器を配置している。規則正しいメトロノームのような"Doors Unlocked and Open"と不安定なピアノの静かな"Unobstructed Views"は五分以上の曲だ。優しいノイズの固まりが、さらに直球のパートを囲むように鳴っている。もし、"Cath..."や"I Will Follow You Into the Dark”のようなストレートで魅力的な曲をこのレコードに期待しているなら、何も手に入れる事ができずに立ち去る事になるだろう。

Death CabはいまだにDeath Cabのように聞こえるが、Codes and Keysは間違いなくバンドが2003年に発表した最後のインディー時代の頑張りでTransatlanticismによりメインストリーム現れた時以来、一番ポップでない作品になった。だから、ここにはバンドが開拓した新しい領域がある。Wallaはミックスの天才Alan Moulderとともに、このアルバムの特徴的な音をまとめるためのまともな骨組みを与える、大手レーベルの力で得た"質"を加えている。しかし、感情や人の関係を追求するのが特徴的なバンドにしては、この作品は、冷ややかで、遠慮がちで、感情的によそよそしい。ヘヴィーな音色の曲("Doors Unlocked and Open", "Unobstructed Views","St.Peter's Cathedral”など)は的外れで方向が定まっていなく、シングルの"You Are a Tourist"や"Underneath the Sycamore"なんかはバンドの最初の時期の楽曲をしっかりさせたバージョンのようだ。

本当に、バンドが過去の栄光をCodes and Keysのほとんどないハイライトで振り返ってみても、Death Cabはなぜか自分自身をまねしているように聞こえる。彼らはBrian Wilson風のバロック調を借りたNarrow Stairsの"You Can Do Better Than Me"を今作の“Portable Television"でやってしまい、The Photo Album収録"I Was a Kaleidoscope"での盛り上がって行くブリッジ部分を"Monday Morning"でコピーしている。そしてPlansの最初の曲"Marching Bands of Manhattan"の基本構造を"Underneath the Sycamore"で繰り返している。バンドをこの10年追い続けている人は誰もがこの親しみやすいフラッシュバッグに暖かさを感じるだろう。しかし、何回か聞き続けているとつまらなくなる。

このまとまりのなさは作品製作にあたるバラバラしたレコーディングのせいかもしれない。八つのスタジオが使われ、まるでDeath Cabのメンバーが全員一緒になることはまれだったかのように聞こえる。特にGibbardは。夢心地の最終曲"Stay Young, Go Dancing"を除いて、彼のボーカルは常に加工され、それが人を遠ざける雰囲気を作り彼のトレードマークだったその親しみやすい声色を奪っている。歌詞はリスクを冒さずに、ノンセンスな韻("When you scream/Love you seem)や陳述的な物事の一般化に徹している。Gibbardの喚起的な物語調や優柔不断な喋りはいつもバンド内で見落とされ、今回もほとんど無い。

この十年間、Death Cabも彼らを取り囲む環境もかなりかわった。彼らがメジャーレーベルと契約しチャートを賑わせている間、10年前にバンドが登場したインディーロックの聖地だったPac NW(パシフィックノースウェスト)のシーン※は後退して行った。しかしGibbardが時に奏でていた音はいまだに響いている。Jimmy Tamborelloと組んだPostal Serviceの優しい、エレクトロのベッドルームポップの音だ。このような音は今までDeath Cabの中で浸透することはなかったが、Codes and Keysでもあのプロジェクトのエモーショナルな魅力、そのレベルまで達する事ができていない。この作品で、Death Cabの音はお互いに遠く離れてしまっている。究極的には、僕らからも。

— Larry Fitzmaurice, June 1, 2011

原文→Pitchfork:Death Cab For Cutie/Codes and Keys

※Barsuk RecordsやSub Popも北西太平洋に面する地域にあるレコードレーベルです。Death Cab for Cutieは両方に属してました。






Codes and Keys


2011年5月31日火曜日

Nat Baldwin/ People Changes




















Nat Baldwin/People Changes

7.9


Nat Baldwinの経歴には感銘を受ける。彼はフリージャズの名士Anthony Braxtonに師事し、EaglesのIn Ear ParkやVampire WeekendのContraに参加、そしてDirty Projectorsのベーシストとして今活躍している。9年の間、彼はExtra Lifeとのコラボレーションを含め、何枚かバラエティに富んだソロアルバムを発表してきた。五枚目の作品、People Changesは期待を裏切らないものになった。


Baldwinはメイン州の遠くは慣れた別荘に赴き、レコーディングを行った。このスタイルでの録音は以前にも聞いた事があるかもしれない。そう、Bon Iverのデビュー作のように、このアルバムは素晴らしいアンビエンス感に溢れている。2008年発表したMost Valuable Playerと違って、People ChangesはBaldwin一人の力で大きく引っ張っている作品だ。何人か友達の助けを借りながら、彼の声とベースだけで構成されている。BaldwinはバンドメイトDirty ProjectorsのDave Longstrethと同じ滑るようなスタイルの、可愛らしいメリスマ※を使って歌う。Longstrethの声はよくグロテスクな形に砕け散ることがあるのに対し、Baldwinはちゃんと形を保っている。これによって、People Changesのスペアアレンジメントへの素晴らしい併置が巧く成されている。土臭い彼のダブルベースの音が、歌声を重しやトランポリンとしてがっちり、伸びよく支えている。彼の声は楽器のように、ひらめいたり襲いかかってきたりリスナーのツボを押してくる。


オープニングナンバー"A Little Lost"はArthur Russelのカバーで、元の作曲家がチェロを用いて演奏したもので、オリジナル、カバー共に高いキーで始まる。Baldwinはよく弦を不協和音を作るためにかき鳴らすが、ここではまるでベッドカバーのように柔らかい表現に徹している。これがBaldwinの歌唱と優しい詩の展開にうまくフィットしている。Russelのオリジナルは伝統的なポップの定型の中で機能していたが、Baldwinはコーラスとヴァースを用いて曲を装飾する傾向にある。これによって開放的な感覚を全てに与え、最終曲の"Let My Spirit Rise"でもそれは顕著である。紙に「君のために、僕に一回にキスしなよ」みたいな歌詞が書かれていると自己陶酔したシンガーソングライターみたいな感じに見えるかもしれない。しかし、アレンジメントや構造の足りなさに関わらず、これはどこから見てもポップソングだ。素晴らしい曲の手触りの連なりがもっと色々なものを楽しみに取っておいてくれるのだ。


このような要素はPeople Changesが広がりを見せることでさらに面白くなっていく。木管楽器が鳴る、綱渡りのようなドラマ仕立ての"Weights"ではBaldwinはギターやサックスの盛り上がりを入れ、静かな”Lifted"ではスネアを挿入した。短い"What Is There"はベースのうなりやげっぷみたいな要素を混ぜたベースのインストナンバーである。彼が喉を使って歌っていたり、弓でベースを歌わせていても、そこには自由の刺激的な感覚がいつもある。

ーDavid Bevan, May 26, 2011


原文:Pitchfork/Nat Baldwin, People Changes


※メリスマ(melissma)というのは日本で言う「こぶし」のようなもので、メリスマでは高い高音を連続的に使う。






People Changes

2011年5月30日月曜日

The Strokes/Angles




















The Strokes/Angles

5.9

最後に僕らがThe Strokesを見たのは彼らが死ぬミュージックビデオでだった。2006年の"You Only Live Once"のクリップでこの四人組は白い服を身にまとい、黒い液体が部屋に充満して行く部屋の中で溺れていた。もしそれがこのバンドの最後を本当に表していたとしても、驚く人は少なかっただろう。三枚目のアルバム、First Impressions of Earthで彼らはバンドの特徴的な音を広げようと必死になりすぎて、まるで黒い水の中でもがいているように見えた。この変化はバンドを逆に不自由にさせたのである。しかもThe Strokesは数年に一枚の周期でアルバムを出して、ファンに昔の曲を歌わせるようなバンドになるほどアホでかっこ悪くないだろ?だから彼らはそれぞれの道へ去っていった。はっきりしないサイドプロジェクトをやったり、家族と過ごしたり、the Strokesではない所ならどこへでも。

2009年11月の後半、Julian CasablancasはStrokesの四枚目のアルバム製作の話題には真剣ではなかった。「何年もやろうとして頑張ってるんだけど」と彼は言う。「僕はいつも時間があるし、他のメンバーもそれは知ってるんだけど、集まるのが難しいんだよね。」
ギタリストのNick Valensiはさらに突っ込みをいれる。「今の状態だと、四枚目のアルバムを作る事すら確かではないね。」でも今ここに、Anglesというアルバムがある。必要以上に美化したスピットボールセッション※みたいなもので、猛々しい復帰ではなかったけど。

※Spitballlingとは叶いもしない理想的なアイディアをとりあえずどんどん提案していくこと。ブレインストーミング。

このアルバムではバンドが地からまたやり直そうという試みがなされている。今まではCasablancasがギターソロやベースラインまで殆ど作曲を手がけていたが、Anglesでは一歩下がって、他のバンドメンバーからの曲が加えられている。そしてこの新しい仕様はクレジットをみても明らかだ。([すべての作曲、編曲 The Strokes]と書いてある。)
この新たな方法をCasablancasは「みんな満足作戦」と呼んでいたし、かなり見下した名前である。この民主主義的な動きは寛大に見えるかもしれないが、彼は残りのレコーディングからも身を引き、電子ファイルでボーカルを送ったりして権力を振りまいていた。そしてこのアルバムでは変なコラボレーションによって生まれた、まとまりのない多様性と不安定な分裂が証明されてしまった。

ファーストシングルの"Under Cover of Darkness"の陽気な聞き慣れた感じの高低違う二つのギターサウンドと滝のように重なったコーラスは、結局the Storkesはthe Strokesであるという結論に達したのだと思わせた。他のスタイルと音でふざけてみた後に、自分たちの昔の姿へリバイバルして満足していたように見えた。しかし、良くも(徹底的に)悪くもそうではなかった。このバンドが登場した時は周期的に1970代ロックのパクリだと批判されていたが、多くの人がStrokesの歌をTelevisionやLou Reedと聞き間違える事はほとんどないだろう。だから彼らの物真似がAnglesで不自然に聞こえるのは皮肉なものだ。しかし、今回は安っぽいCBGB風パンクの影響が時々、1980年代の目立ったスネア音に置き換えられている。"Two Kind Of Happiness"では昔のヒューヒューしたU2のフックで曲を盛り上げ、一度一緒にツアーを共にしたTom Pettyのパームミュートとしゃっくりみたいなメロを盗用している。"Games"はまた80年代へのオマージュで、綺麗なシンセと遠くで聞こえるようなハンドクラップを使い、「空っぽの世界で生きる」ことの憂鬱と重い負担を表現しようとしている。始まりの曲、"Machu Pichu"はMen at Workの"Down Under"を思い起こさせる。これらのバンドがStrokesのアルバムに影響させると誰も予期しなかった。

それは構わないし、良い事だとも。もし彼らが他のバンドみたいな魅力や献身でやり通したならばね。全体を通して、ヴァースとコーラスが、歌詞と音楽が、意図と遂行の関係が繋がっていなく、アルバム全体をバランス悪く引きずっている。Casablancasの自分の行動へのアンビバレンスがよく顔を出す。プログレっぽくしようとしてださくなった"Metabolism"で彼は宣言する。「悪いヤツになりたい/でも心では自分がつまんないヤツだって分かってる」ぐちゃぐちゃな最終曲“Life Is Simple in the Moonlight"で彼は告白する。「自分の事以上に人を認めなかったり自分以外を応援したりしない。」Casablancsはthe Strokesで自己嫌悪を最初からずっと歌ってきたが、いつもは音楽の起伏が感情をうまく演出していた。しかし、ドラムのない、悲しそうな"Call me Back"で彼は「みんな忙しいし、誰かいつも遅刻する」とふわふわしたキーボードとギター一本で歌う。この曲をきけば、なんで誰も彼に電話を返さないのか分かるはずだ。

しかしまだ、この五人が集まったのが何故良かったのか思い出させてくれる瞬間がある。ビートが効いた"Gratisfaction"はまるでThin LizzyとBilly Joelを合わせたようなあくせくしない、直球ナンバーで、他のアルバム曲の中で群を抜いてキャッチーだ。さらに良いのは“Taken For A Fool"で、Anglesで唯一今までのThe Strokesのサウンドのまま斬新な音を鳴らしている。この歌のヴァースは隙がなく、David BowieのLodger収録の曲みたいに不思議にファンキーなのだが、シンコペーションを楽器のフックがせっかちな感じで落ち着かせている。2009年に音のこだわりへの到達点について、Casablancasは「本当にチャレンジしてみて、基本に戻って、普通に音が聞こえる事だね。」と言っていた。価値のある目標だし、"Taken For a Fool"では成し遂げられている。

The Strokesの復活についての当てにならないニュースがこの数ヶ月で続いていたのと同時期、同じ時代に活躍した二つのバンドが舞台を去った。The White Stripes---彼らはStrokesに「今一番クールなバンド」選手権で何年か闘いを挑んでいた。彼らは休止期間を経て2月2日、公式に「バンドの美しいもの、特別なものを永遠に保存するため」解散を発表した。NYの仲間LCD Soundsystemは4月2日にマディソンスクエアで活動に有終の美を飾る予定である。偶然にもその一日前にThe Strokesが同じ場所でライブを行い、第二の人生を送ろうとしている。誰もが先進的である内に辞めたいと思う。本当に辞めるバンドもいるのだ。
−Ryan Dombal, March 21, 2011












Angles

2011年5月28日土曜日

Friendly Fires/ Pala























Friendly Fires/Pala


7.4


2008年に発表されたFriendly Firesのセルフタイトルのアルバムに"Jump in the Pool"という歌がある。歌詞の題材はかなり直球(ヒント:プールに飛び込む)だったが、このナンバーがアルバムの目玉曲になった理由はコーラス部分で歌の名前を繰り返し、サビに突っ走って行く所である。活気に溢れたポリリズムから、ただの数秒で速く勢いよいサビに展開していく。印象的な演奏と旋律の変化はおなじぐらい思い切ったものであった。しかしそれがポイントでもあるのだ。Friendly Firesが一番輝いていたのはロマンティックなエレクトロの感触("Skeleton Boy")、と大げさなジェスチャー("Paris")を表現していた時であった。彼らは抑圧が効かない状態で優れている官能主義者達なのである。


賢明にも、バンドの二枚目の作品Palaでは時間をかけず、すぐに世界観に染まっていく。様々な色をもつネオンポップのアルバムの最初の曲、"Live Those Days Tonight"ではアルバムの音に対する野心を聞く事ができる。今回Paul Epworth(注:Adele, Maximo Park, Cee-Loなどを手がけるプロデューサー)が大きく製作に協力し、さらに楽曲にカラフルな音の装飾を加えた。デビューアルバムから3年、この期間バンドは注意深く正確にディテールの細部を飾り立てるための時間にうまく利用していたようだ(B級映画みたいな安っぽい"Blue Cassette"の盛り上がり、"Helpless"のバックで聞こえるおしゃべりとBoards Of Canadaのようなキーボード使いとか)。


加えて、Palaは彼らの名前を「ダンスが好きなロック主義者※」のリストから外す結果となった。"Chimes"のUK風の飛び跳ねるファンキーなリズムから”Hurting"における信号音が特徴的なファンクまで、あらゆるスタイルが試されていて、多くの場合それらをうまく身につけている。バンドの音楽の趣味と最大値まで引き出そうという冒険好きな性質が功を征した。



しかし、世界にあるどのような言葉で説明しようとしても、Friendly Firesがまずロックバンドであるという事実は変えられない。しかもとくに感情的に特徴づけられている。バンドの三人のメンバーは10代の時に誰も知らないボーカル無しの"ポストハードコア風(つまりエモってことだけど)"のスタイルでFirst Day Backを結成した。いちど彼らの音楽を一度でも味わった事がある人は、それが一度聞いたら、ずっと耳に残ってしまうという傾向にあるということが分かっているはずだ。そして、Palaの高いリスクの作品構成がそれを反映している。このアルバムではエモーショナルな部分が規則的に出てくる。情熱的な嘆き"Show Me Lights"や“Pull Me Back to Earth"は君が期待するのと同じくらい大ざっぱな出来だ。バンドが大げさな、陰鬱に色付けされた劇的演出(出足が遅いタイトルトラックや、"Chimes"の勇敢な感じに見せようとしているバカっぽいファルセット)に縛られすぎている時、この作品、Palaの深海に飛び込む感覚が溺れる感覚と似たようなものに変わってしまう。


でも心配はいらない。彼らには"Hawaiian Air"で聞く事が出来るように、ユーモアも持っているのだ。タイトルが示すように、フロントマンEd Macfarlaneの歌詞の焦点は、そう、ハワイ旅行だ。ただ、彼は曲全部使って飛行機でそこへ行くまでの経過を説明してみせ、(「喋る犬が出てる映画を見てる」「食事を抜いてG&T(ジントニック)を飲む」)。ほとんど南国の空気を吸う事が出来ていない。このアルバムはシンプルな快楽がクローズアップされたものである。弁解と誠実さの中に、こそこそした感情的な微笑みが作品の甘く色付けされた流れに隠されている。だってこういうのは楽しくなくちゃいけないだろ?

ーLarry Fitzmaurice



※「ダンスが好きなロック主義者」は原文ではRockist dance-dilettanteとなっています。ロック主義というのは80年代のPeter Wylieという音楽家が提唱した、ロックをポピュラーミュージックとして規範的に定義しようというUKの音楽雑誌なので特に用いられた思想です。確かに80年代はDuran Duranとかロックバンド風のポップが流行しました。Dilettante(ディレッタンテ)という言葉は芸術、音楽の愛好家という意味もありますが、知ったかぶりの素人というネガティブな意味も含みます。


原文:Friendly Fires/ Pala







Pala

2011年5月26日木曜日

Kate Bush/ Director's Cut



Kate Bush/ Director's Cut

7.3

このアルバムは厳格に言って新しいKate Bushのアルバムではない。頭を悩ませるほど待たされる、Bushのレコード発表周期に慣れてしまっているファンにまず警告しておく。Director's Cutが最初に発表された時、彼女のアートロックのおとぎの国から予定より一足早く最新作が伝達されたのだからありがたいことだった。代わりに、この作品は彼女のやや賛否両論の作品が多かった時期を再考するものとなった。Bushはアーティストとして一度市場に出された作品に対してあまり特別な感情を持たないと口にしていたのに。


Director's Cutは1989年発表のThe Sensual Worldと1993年発表のThe Red Shoesの曲を変身させたものである。何曲かは、重要な要素(リズムトラックやボーカル)が再録音されている。ある場面(たとえばゲストパフォーマンスなど)は変えず残されている。まれに、一曲丸ごとリメイクされている。聞き慣れた、とても時間に縛られ、あまり新しくなく、またファンが数年聞き続けてきたものではない作品の誰も予期しない大きい再生を行ったのだ。Director's Cutのミックスの大きな違いは音色だけではなく、多くの曲で感情の胎動も変化させた。レコード上では活発な、人見知りの女性から過去生み出された作品が今では、多くの場合で落ち着いていて、思慮深く、内向的なものになった。


The Sensual Worldが最初発表された時、現代的な作品にも、時代遅れな作品にも見えた。きらびやかなスタジオワークに拘ったプロダクションは正に時代に沿っていたし、Fine YoungやINXSのような活発なドラムとリバーブを聞かせたポップの流行に適していた。しかし、曲やBushのパフォーマンスは彼女はやはり同じ型でアプローチしていることをくっきり思い出させてくれた。オペラのような歌唱、プログレ、ジャズ色を帯びたカンタベリーのサイケデリックシーンのような複雑性、Peter Gabrielを巨大なラッパスイセンみたいに変装させてしまうほどの演劇性は変わらずだったのだ。それは不思議な混合物だった。滑らかで怏々しい80年代の音楽が70年代プログレで顕著だった複雑な曲構成と表現主義が合わさるのは変な感じだった。レコードのほとんどの緊張は、生々しい感情的な奇妙さがいつ現れてもおかしくない、キラキラした聞きやすいポップソングから感じる事ができた。彼女はその瞬間を演じていたが、それに流される事は出来なかった。


The Red Shoesが発表される頃には、アルバムのプログレ構成、ゲストのギタリスト、ワールドミュージックの感覚、あらゆるポップミュージックを洗練させる技をつめた音楽性は、生々しく「本物」を求めたオルタナロックにフィットするにはBushはすこし飾り立てすぎていた。(注:Nirvanaを始めとしたガレージがはやっていた頃)

また、彼女の70年代、80年代に活躍した仲間達と肩を並べて居座るにはまだ反抗的すぎるてらいもあった。他のアーティストは心地よい、安全な、もの柔らかなシンガーソングライターの位置に移っていたからだ。彼女の時代はまだ終わっていなかった。彼女自身がジャンルの一つになっていたのだ。あの時、誰も彼女のような音楽を誰も作っていなかったことを無視する事はできないけれど。アダルトコンテンポラリーのがちゃがちゃした感触と上品ぶったフォークの感触が露なエロティシズム、怒りや楽しさをさらけ出した。Bushは言葉にならない不気味さを吐き出したり、恍惚に吠え跳ねた。


BushがDirector's Cutで完成させたのは、簡単に言うと、これらの曲から80年代っぽさを無くしてしまうことだった。(90年代に発表されたThe Red Shoesにも同じ事が言える。)ドラムの存在感とデジタル処理は音楽を即座に古臭くし、聞きやすさと深い個人的な世界の明らかな対比を浮き上がらせてしまっていた。今回、この二つを穏やかなリズムトラックを、暖かくもっと親密な空間に置き換えた。オリジナルの“The Sensual World”ではケルト音楽からアイディアを得た要素がデジタル処理された世界の中へ乱入していた。君がもしオリジナルを面白い配合だとと感じたり、新古が変に混じった物だと感じていたとしても、新たに名付けられた"Flower of the Mountain"ではこのような粗暴な要素はもう排除されている。曲はまだ、バンドが一緒に演奏している感覚が無いが、新たな統一性があり、愛らしく手作りされた音の合体した要素が感じられる。"The Red Shoes"は同じくケルト音楽に影響されているアルバムの目玉曲で、Bushの一番ワイルドなパフォーマンスの一つである。新たな激しさを得ることが出来たのは、バックの音が独創的に進化したからである。しかし、このつなぎ合わせの作業の全ての要素が完璧に仕上げられているわけではない。"And So Love Is"の奇妙なキーボードの感触ーGang Gang Danceが好んで使うようなキッチュで酸っぱい80年代のサウンドーが今回の新たな環境で驚くほど自然になじんでいる。しかしEric Claptonのブルース風のギターのかき鳴らしがさらに浮いて聞こえ、スタジアム級の怒号がこの手作りの世界にはなじんでいない。確かに緊張感を生んでいるが、間違った類の緊張感になってしまった。


いつも驚かされるのはその歌声である。Director's CutでのBushは今までのどんな個性的なアルバムよりも自分の声を自慢しようとしていない。声の域の幅広さとそれを使う事を恐れない事で知られる女性としては、彼女の今回のパフォーマンスは感情が常に調整され、多くの場合低いキーで歌われている。Director's Cutの多くの曲の中でその違いに驚かされたのは"This Woman's work"だ。悪い意味ではなく、この曲はBushの曲で一番人を立ち止まらせるような力を持った曲なのだが、それが新バージョンでは何かもっと悲しく、歌手自身が愛に打ち破れないように自分を制しているような印象を与えるもの変化したからだ。バックの音はほぼミニマルでさらに深く、楽器の感触は力強いものになっている。急かされた一人ぼっちのBushがまるで広大で孤独な空間の中で流れているように聞こえる。しかし、オリジナルの子供っぽいメロの部分がコーラス部分で成長した女性になりたいと望む展開も、Bushは今回はバランスよくペース配分している。歌詞の深い後悔をディーヴァのような劇的な表現よりも抑えられた表現と音色で通じ合わせている。この曲はアルバムのほとんどの曲がそうであるように孤独で、親密だ。Bushの初期の作品の殆どは大胆で華麗な演奏がされていて、優しく、獰猛な部分があった。


さらに年を取って落ち着いたBushはまれにメロドラマ調にブレーキをかける事があるが、この新しく編集された曲によって、彼女を愛憎の存在にしたその恥じない堂々とした姿勢は変わらなかった。Director's Cutでは若かりし頃と後期のアーティストのキャリアを比べるユニークな機会を与えてくれる。どれを好むかはきっと、君が自分の力を熟知して仕事するさらに自信がついたアーティストか、ポップの伝統をねじ負けようと活気に満ちている元気のいいアーティスト、どちらかを気に入るかによるだろう。


原文:Kate Bush/Director's Cut


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2011年5月14日土曜日

Jessie J/ Who You Are




Jessie J/ Who You Are

2.0


アメリカでは、Jessie Jはなんの警告もなしにスポットライトに現れた。彼女の突然のスターダムには何とも心地悪い必然性みたいなものがある。まるで凄腕プロデューサーのDr. LukeとUniversal Music Groupの連中が僕らがどう願おうと「彼女は大きくなるべきだ」と法令を下したかのようである。今の所彼女はうまくやっている---シングル"Price Tag"はポップチャートやダウンロードを賑わせているし。が、彼女がアメリカのマーケットを引っ張ってくれるかどうかと言ったら、微妙な所だ。


Jessie Jは現在の音楽需要にはプラスの存在ではあるようだ。今のポップ界はすでに個性的な女性ポップスターで溢れている。ポストモダンディスコアーティストLady GAGA,獰猛なソウル女王 Beyonce,だらだらしたパーティーガールKe$ha、甘ったるい怠け者Katy Perry、サイボーグセックスシンボルBritney Spears、トラブルまみれの氷の女、Rihanna、永遠のかませ犬Robyn。Jessie Jはどちらかといえば謎である。彼女はどうも英国出身ということだけで特別視されているみたいだ。彼女のアクセントはパフォーマンスの垣間時々聞こえるだけだけども。彼女は良く言っても、ひどく馬鹿になったLily Allenのようであり、最悪なところ、テレビの歌のコンテストで君が大反対したくなるようなタイプに見える。このデビューアルバムでの彼女の曲の選択は歌のコンテストっぽさを増強してしまっている。まとまりがなく、歌の巧さを証明しようと全てのベース音を被ってしまっている。彼女がアルバム名を“Who You Are(それがあなた)"にしたのはとても皮肉である。なぜなら彼女は13曲のなかで首尾一貫したアイデンティティの主張を全くしなかったからである。


Jessie J、本名Jessica Cornishは自身ポップスターになる前にすでに作曲家として成功していた。特筆すべきはMiley Cyrusのヒット曲"Party in the U.S.A."をDr. LukeとClaude Kellyと共作したことだろう。どうもこの二人とは相性がいいようだ。Who You Areのなかで一番聞くに堪える曲が彼らとのコラボレーション作だからだ。褒めるほどでもないけれども---"Price Tag"はNelly FurtadoがSugar Rayと歌ってるみたいだし、"Abracadabra"はNatasha Bedingfieldの聞き苦しくないアルバム曲のように聞こえる。Cornishは残りの曲を様々な作曲家と共作していて、結果として充分で一般的な作りとなった。

時として、作曲家たちが型にはまった曲を書こうと必死になってるのがまるわかりだ。例えば"Casualty of Love"なんかは、Alicia Keysの名曲、"If I Ain't Got You"の複雑なメロディーとアンビエンス、ソウルと感傷的な響きが削ぎ落とされたバージョンに聞こえる。シングルになった“Do It Like a Dude"のダンスヒットをごちゃ混ぜにした感じはRobynの"Dancehall Queen"にそっくりなんだが、Robynの暖かみと人間らしさを嫌らしい威張り散らしに置き換えてしまった。アコースティックバラッドの"Big White Room"はシンプルに綺麗に仕上げようとしているんだけれど、だだくさでやりすぎの歌唱がぶち壊している。


Jessie Jは全く不快なキャラクターを演じているときが一番輝いているように見える。彼女もまた若いシンガーたちがどうしても自分がいい声だと証明するためによく使う、安易でニュアンスがない決まり文句にほとんどの場合従っている。時々イライラした甲高い歌い方をするのだが、それが少なくともかなり特徴的ではある。ガキっぽいロックナンバー"Who's Laughing Now"ではこれが度を超えてしまっている。この曲はモダンポップの強迫観念である「アンチ」攻撃の行き着く最低部になりえる。このトラックで彼女は初期の音楽をディスり、虐めていたという知人達を棚に上げている。彼らは彼女が成功してからは逆に興味を示すようになったようだ。自分を利用しようとしている人々を信じないのは公平な事だが、この歌詞では彼女の過激で辛辣な批判を表現するにはマイナーすぎる。この曲はユーモアが無い全く苛立たしい権利主張である。どんな批判も非難も全て合わせて彼女の自尊心を打ち砕こうと試みる人が鳴らす音である。"Who's Laughing Now"はモチベーションを上げる曲のように仕上げられているようだが、ナルシストで閉鎖的すぎて、歌い手の情けない恨みと常に認められたいという欲求を想像する事は難しい。


Cornishはロンドンの著名なBRIT SCHOOLの卒業生である。この芸術学校はAmy Winehouse, Adele, Katy B, Jamie Woon, Kate Nashなどの活躍している若い歌手をいくつか輩出している。おかしなことに、この歌手達のなかで、かなり明らかにCornishだけがPop Starになるために学校に通ったみたいだ。その安っぽさからわかるようにね。彼女もまた彼らのようにあか抜けていて、バランスがとれているのだが、独特のスタイルが皆無である。AdeleやWinehouseは同じくパワーハウス向けの声を持っているが、彼らは明瞭に得意分野を理解し、曲に深みと人間性を与えている。Jesse Jにそんな抑制力が少しも無いのだ。彼女の才能を表現するのに一番の方法を、Christina AguileraがJoni Mitchellに見えてしまうほど強烈な"Mamma Knows Best"のビデオ撮影をすることだと考えているのだから。


あのRebecca Blackの"Friday"のビデオがすごい速度でネット上を駆け巡っていた同週末、Jessie JはSaturday Night Liveのミュージカルゲストとして始めてのアメリカでの大プッシュを与えられていた。”Friday"が広まったのは、世界一最低な曲と呼ばれ、ドープな歌詞を馬鹿にされ、モダンポップを気取ったきまずい作風があったからだ。Blackの曲とWho You Areにある曲の一番の違いは、Jessie Jはみんなが期待するPopの形を正しく理解してる点、かわいそうなBlackは間違って理解している所だ。しかしこの「間違い」の中にJessie Jにはない人間性が見て取れる。たとえボーカルのミックスがむちゃくちゃであっても、Blackはちゃんと一人の明確な人間として聞こえる。また、"Friday"の歌詞がださいのは否定できないが、いままで素晴らしいポップソングがそうであったように、そこには曲をおもしろい、突っ込みたくなる、と感じさせるマジックがある。Jesse Jの歌詞がそれほど平凡で芸術性がないわけでは無いが、全体的に魅力に欠けている。彼女が自分を否定する人々にたいして苦々しい叫び声を上げていないときには、記憶に残らない同じような事を並べ、吐き気がするような"Rainbow"では意味不明な理想郷を歌ったりしている。Blackは史上最低のポップソングを歌い非難されているが、彼女はまだ13歳のアマチュアで、Z級の音楽会社がサポートしているのだ。もし君が馬鹿で、中身の無い音楽を非難したいのであれば、Jessie Jのほうが良いターゲットだ。


原文:http://pitchfork.com/reviews/albums/15246-who-you-are/






2011年5月13日金曜日

The Antlers/ Burst Apart






















Burst Apart

8.2
BEST NEW MUSIC


ブルックリンのインディー界では幾多のバンドがそれぞれどのバンドよりもかっこよくなってやろうと頑張っているような感じがあるんだが、ありがたいことに誰もPete Silbermanにはその風潮を教えてないみたいだ。2009年、灼熱の夏にThe Antlersのフロントマンが三枚目のレコードHospiceと共にベッドルームから現れた。そのアルバムには彼の流行遅れなずたずたに切り刻まれたようなコーラスと、コンセプトアルバムへの野心に包まれていて、まるで心の核兵器発射ボタンを押してしまったかのような危機的で感情的な題材を取り扱った。たとえば、人工中絶、癌、死とかそういう楽しい事をね。今では三人組になり、The Antlersは---よく、難しいとされる次のアルバム制作におこる一般的な前兆だが---Burst Apartでエレクトロ音楽の影響を受けた事を宣言している。しかしBurst ApartはPR向けのバイオグラフィーとArcade Fireを先駆者とした口コミの成功への熱望を発しているにもかかわらず、アルバム全体を荒廃させるほどの雅量と、表現にとんだ明瞭性でつながっている。


リードシングルの"Parentheses"を聞いただけでは彼らの手腕は量れなかった。かなりアルバムの色からそれていた。レディオヘッドのBPMが早くなったバージョンの"Climbing Up the Walls"に聞こえたし、ごちゃごちゃした電子音のパーカションやきめ細かいピアノの波紋が、誠実にMo' WaxとWarpの感覚をもったOK Computer後、Kid A前のオルタナロックソングの構造を彷彿とさせた。しかし、攻撃的なSilbermanのファルセットと古臭いディストーションが効いたギターが全体の異常な性質を体現しているし、実際Burst ApartはHospiceをひっくり返したような作品と見る事も出来る。つまり、前は長い落ち着いたホワイトノイズが感情の爆発につながっていたが、今回Burst Apartではそれが我慢強く豪華なダウンテンポの調子に流れていき、かなりシリアスなロマンティックな騒音を隠している。

このような熟練した夢日記的な解釈は"毎晩俺の歯が抜けていく(Every Night My Teeth Are Falling Out)"というタイトルからもわかる--歯が抜けるというのは一般的な性的不満の兆候だ。だが結局、Burst Apartは"I Don't Want Love"という曲で始まる。過去、感情に敏感になるしかなかったかのような歌い手が送る、心を打つ二日酔いに苦しむ男の叫びの歌だ。この曲の輝かしいメロディは少なくともポップとして聞こえるのだが、"Parentheses"や“Every Night"の白い拳でなんとか正常を保ち,性行為が共通の自爆行為だとするような風体はThe Walkmenの“The Rat"と同じ蚊帳の中から生まれた産物である。

Burst Apartは侘しく、夜を感じさせる雰囲気を持っている。死に這いつくばるおどろおどろしい曲調が予感できる"No Widows"は乗り物事故への恐怖心を歌っているし、短い光の瞬きのようなものがゴージャスで呪術的なアルバムの目玉曲、"Rolled Together"で顕著になる。この曲のブラッシングドラムや澄んだギターの音はSigur RosのAgaetis Byrjunを研究し尽くしたかのようだ。変わって、ほとんどビートが無い優しい"Hounds"や"Corsicana"のようなバラッドはThe Antlers独特のサウンドであり、聞くのが痛々しいほど綺麗だ。Silbermanの憂鬱な歌詞があったにしても、無重力なシンセ音とつぶやくような歌い声をリスナーは簡単に楽しむ事ができるし、高揚感まで覚えるのだ。

しかし、ただの一曲だけでBurst Apartの失策がひどすぎるものになってしまったのは残念でならない。このようなアルバムにみんなが立ち止まって聞き入ってしまうパワーバラッドを求めてはいないのだけれど、"Putting the Dog to Sleep"でまさかやってしまっているのだ。必要も無くドラマティックな歌唱や、Doo-Wop調の曲進行は凝りすぎていて、適当な最終曲というよりは、カラオケの最後の締めという感じなのだ。何はともあれ、"Putting the Dog to Sleep"のおかげでThe AntlersがBurst Apartというアルバムが手に汗握るバンドの過去話ではなく、グループとしての成長の物語であるとうまく示すことが出来ている。Hospiceの生々しいパワーはリスナーにあまり物語を想像する余地を与えなかったし、胸をぐっと打たれるか全くそうでないか、いわゆる聞き手を選ぶ作品だった。The AntlersはBurst Apartを通して君の手を繋いでいてはくれない。これによってアルバムは必然的にリスナーの中で成長していく作品になるが、いつも側に居てくれはしない。このアルバムが君自身のしどろもどろで孤独な未来をどう選択させてくれるか、というときにさらに影響力を発するのだ。


原文:http://pitchfork.com/reviews/albums/15411-burst-apart/



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